人類が 息を止めたら 脱炭素

人より少々二酸化炭素の排出を抑制するなど、

地球にやさしい暮らしをしているつもりでも

人間は地球上の何かを犠牲にしなければ生きていけない。


その犠牲を少なくする努力は当然必要だとして、

自分が自分の勝手な思い込みでやっていることが絶対だ、などと自惚れて

それを他人や他国、他の文化圏に押しつけるのは、いかがなものか。


「再生可能」「持続可能」などなど

ありがたそうな言葉が妙に広まり始めたけれど、

最初に言い出した人々の猿まねを強制されているような感がなきにしもあらず。

各自が各自の良心に従い、自分のできる何かをやればいいと思うのだけれど。


昔の日本人は家を建てるとき、木を植えたという。

やがて建て替えの時期が来たら、

その植えた木から木材が取れる。


SGDsなどというおかしな横文字に惑わされる遙か以前に

日本人はこういうことをやってきた。


それほど二酸化炭素が憎ければ、汝の息を止めるべし。

地球に負荷を与えたくなければ人間は死ぬしかない。

それが究極のエコだろうけど、いったい誰にそれができる。


何かを犠牲にせねば生きていけない、ということを素直に受け止め

その上で、無力な自分に何ができるか。答えはさまざまであるはずだ。

なのに「モデル」にぴったりはまらねば、テロリストのような扱いを受ける。


宗教の押しつけは、信教の自由を脅かす。

普遍的価値を共有する国々では当たり前のはずなのだが。

「自由が戻るように」の前に鳴っている音色は、

ソフトウエア音源ですが、どこかの国の楽器の二胡です

無条件幸福駅から愛国駅へ

多様性、持続可能、脱炭素… ポリコレに振り回されると、誰かが笑う