2022.05.13 21:23フェイク放題、写真の日々今年は例年になく、桜の写真をよく撮った。撮りに出かけた頻度もさることながら、枚数の多さ、つまりシャッターを押した回数もただならぬ。ひとえに写真がフィルムからデジタルに変わって以来の悪弊だが、・感材費がかからない・専門家に頼らなくても、自分でいくらでも修正がきくということで、「絶対にこのアングル、この瞬間」という緊張感が薄れ、適当にバチバチ撮っていれば、後でなんとでもなる、という横着心の賜物である。たぶん自分に厳しい人なら、デジタルに変わろうが1コマ1コマ、変わらぬ緊張感で望むのだろうが、加齢とともに、ますます自分に甘くなっている私なんぞすぐに易きに流れてしまう。まあ何事も本人の心がけ1つ、ということなのだろうが、「真を写す」はずの写真においても、誤魔化...
2022.05.11 02:39健全な気難しさ、のようなもの昔の人はみんな、健全な気難しさ、のようなものを持ち合わせていたような気がしてならない。些細なように思われることでも、許せないものは許せない。だからそれをはっきり言う。だけど、気が悪いからではないから、一言言って、それが理解されて、気が済めば、以後は根にもたず、普通に付き合っていく。それは、言われる相手も、聴く耳をもっていた、というのもあるだろう。自分の非を指摘されれば、素直に認め、改めることができたのだ。小さな過ちでも矯めすことは必要だ。世の中のたいていのことは、たとえ大きなことだって小さなことの集積でできているから。
2022.04.30 21:49どこか似ているウクライナ国民の命を守るために、大統領は降伏、停戦の道を検討すべしというような「意見」を述べる、メディアの有名人がいる。一方で、悪の下に降伏すれば、より無残な日常が待ち受けていることは火を見るよりも明らかだから、真の平和を求めるには、屈せずに戦い続けるしか道はないと大統領の決断を肯定する声は決して小さくない。この意見の対立は、今の社会の何かに似ている。たとえば体罰をめぐる賛否両論。教育や躾の場に、暴力は何が何でも持ち込むべきではないとする意見と身をもって、やっていいこと、悪いことを叩き込むことも、ときには必要だという意見。見せかけの平和、暴力反対の理想論、もっともらしい意見や美辞麗句、あえて批判を避けるための「無事これ名馬」的な発言。直接には自分とは関...