リベラルよりも保守の方が品があると思ってきた。
今日的リベラルの発祥は、
敗戦後のどさくさによる幼年教育の乱れと、
敗戦以降に染み付いた、敗戦国民としての、そしてわが国に特有の
自虐志向ってやつが大きいのだろう。
その上に、
政府与党や資本家、果ては母なる国を叩けばカネになる
ということに味をしめた大新聞のミスリードが加わり、
普通であることが普通でない国の地歩を固めた。
それにまた、なおも輪をかけるがごとく、
誰もが自由にモノの言えるネット環境の整備が
リベラル的なるものを助長してきた。
もはや日本や日本人の美風は、致命的な状況とも言える。
憲兵の飛んで来た戦前と違い、
政府与党、お役所、大企業ほか、力をもつ者たちほど、
文句の言いやすい相手はいない。
「弱き者」に対し、赤子の手を捻るようなことは
バッシングのかっこうの対象になるから、
力ある者は、限界の限界まで我慢を強いられる。
だけれども、保守の人たちも黙ってはいなかった。
国を愛し、国賊を憎み、日本社会の劣化を憂慮し、反撃に出る。
個人的には、そういう人々がまだまだ存在するということに
安心感を得てきた。
しかし、よくよく眺めてみると、
一見「保守」の人たちの中にも、
リベラル的な行動様式を示す人たちがいるようなのだ。
手短に言えば、ネトウヨ、ヘイトスピーチの類である。
(ただ、ヘイトスピーチではないのに、そのラベルを貼り付けられるケースも多数)
もう少し「手長」に言えば、
「こういう人種は有無を言わさずにやっつけるべし」
という暗黙の了解に従って行動を起こす。
一つ一つを精査せず、たとえば
ごく親しい人といる場所だけでの、ほんの二、三の言動など、
些細なことを根拠にラベルを貼り、共通の攻撃の対象とする。
このような「リベラル」と言われる人たちの
「お家芸」を盗んでしまった人たちである。
悲しいかな、このように一見「保守」の中にも、
そういう公正を欠いた人たちが存在するがゆえに、
「ほら、保守はこんなにおかしいことを言っている」などと
リベラル的主張の正しさの根拠として逆利用されてしまうのだ。
個人的な理想を言えば、リベラルも保守もなくて、
あらゆる人、あらゆる出来事に対し、
限界はあるものの、なるべく多くの判断材料を集め
一つ一つ自分なりの考えをもてばいいと思うのだが、
今のネット社会のように情報が多すぎると、
二分法の罠に陥りやすくなるように思えてならない。
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