江戸も令和も、小市民の武器は諧謔精神

全国紙の記者2人と飲んでいたとき、

「どうして、あのタイミングで、あの情報をオープンにしたのだろう」

みたいな話を小耳にはさんだ。

たぶんライバル紙の報道について言っているような気配であった。


この瞬間、自分は一般の小市民の一読者に過ぎないことを思い知った。


メディアのプロはたくさんの情報を握っていて、

一般向けに報じられるのは、ほんのごく一部のみなのだ。


新聞を精読しただけで世の中を知った気になるのはやめよう。

ネットの情報だけで、事件の裏側を知った気になるのも間違いの元。


当たり前といえば当たり前のことを「心した」わけだが、

それでは、情報をもたない小市民は、何を信じればいいのだろう。

となると、もう嗅覚しかない。


たとえば自分は函館に移住して、ある人と知り合いになった。

初対面の印象は、

「何とずる賢そうな顔をした人なのだろう」

というものだった。


それから数年、親しく付き合うようになり、

最初のころは、親切で、鷹揚で、地元のためを考えているようで

まったく「ずる賢さ」を感じさせられることはなく、

最初に「何とずる賢そうな」と思った顔も、普通の顔に見えるようになっていた。


しかし、さらに付き合いを重ねる中で、

「何と金に汚い人なのだろう」

「利用できるものは利用しないと損のように思っているのだな」

「世話になってもまったくお返しのしない人だ」

「自分さえよければ、他人はどうでもおかまいなしなのか」

と身に染みて思わされる振る舞いに、しばし遭遇することとなった。

果ては私の母まで

「なんちゅう底意地の汚い人なんや」と

嫌がるようになってしまった。


たぶん、私のことを軽く見るようになって、

警戒心や、善人に思われたいという虚栄心が薄れ、

すっかり本性を現すようになっていったのだろう。


これを振り返ってみるに、

多少の経験による判断より、第一印象の方が的を射ていた。

嗅覚の方があてになる、というわけだ。


さて話を戻し、小市民は何を信じて生きればいいか。


世の中の出来事、広く流布するようになった考え方、人の善悪などなど

たかが小市民の身の回りといえど、判断を要するものは永遠に尽きない。

それをどのように判断していくかは時と場合によりけりだろうが、

たとえば、とくに思うのは、脱炭素だとか、多様性尊重だとか、持続可能だとか

今、世界が流されようとしている風潮について

それが正しいか否かなんて、到底判断できるものではないだろう。

その道の専門家と言われる人も含め、

人間の持ちうる判断材料など、たかがしれていると思うのだ。


脱炭素の話でいえば、

・二酸化炭素の排出量を削減すれば本当に温暖化が食い止められるのか

・氷期、間氷期というとてつもなく大きな気候変動を繰り返してきたことをどう見るか

・再生可能が持てはやされるが、メガソーラーや風力発電で大丈夫か

などなど、挙げればキリがないほど不可解だらけ。

善悪、正否の判断など、とても簡単にできるものではないだろう。


そういう中、無力な一個人にできることは、笑うことだけだと思えてならない。

絶対的な根拠もないのに、脱炭素一色に染まる安易さを笑う

いくらでも不正ができる排出権取引に真顔で取り組む滑稽を笑う

一方的に温暖化の犯人を決めつけ魔女狩り同然に排除する横暴を笑う


地球環境にせよ、何にせよ、

今まで頼ってきたものを一気に否定し、

熟慮する間もなく、手のひらを返したように机上の理想論に走る

なんてことをして、良い結果など導けるはずのないことだけは確かだろう。

なのに、我が物顔でその先頭に立つ人々は、

単に洗脳されやすいだけ、という可哀相な人々ではないか。


この世界的に愚かなる見切り発車に歯止めをかけるのは、

それを笑うことだけではないか。


お上の統制ものともせず、

川柳や狂歌で笑い飛ばし、下々の共感を誘った

江戸の庶民譲りの諧謔精神。

小市民の持てる武器は、これに尽きると思うのだ。


しかし、そんな思いと裏腹に、

AIだのビッグデータだの、わけのわからぬ新手の「ツール」が

不透明な現代社会の救世主のように、もてはやされる。


AIにせよビッグデータにせよ、脱炭素に劣らぬくらいに

何者かの商売のタネであり、それを操り、大金を稼ごうとする者たちが

必ずどこかにいるはずなのに。


思考停止になるのは恐い。

だが、さらに恐いのは嗅覚の衰え。

無条件幸福駅から愛国駅へ

多様性、持続可能、脱炭素… ポリコレに振り回されると、誰かが笑う