どこか似ている

ウクライナ国民の命を守るために、大統領は降伏、停戦の道を検討すべし

というような「意見」を述べる、メディアの有名人がいる。


一方で、悪の下に降伏すれば、より無残な日常が待ち受けていることは

火を見るよりも明らかだから、

真の平和を求めるには、屈せずに戦い続けるしか道はない

と大統領の決断を肯定する声は決して小さくない。


この意見の対立は、今の社会の何かに似ている。


たとえば体罰をめぐる賛否両論。


教育や躾の場に、暴力は何が何でも持ち込むべきではないとする意見と

身をもって、やっていいこと、悪いことを叩き込むことも、ときには必要だという意見。


見せかけの平和、暴力反対の理想論、

もっともらしい意見や美辞麗句、

あえて批判を避けるための「無事これ名馬」的な発言。

直接には自分とは関係のないという第三者による、このような善人的発言によって

本当に「明るい社会」導かれるのだろうか。


ネットによる誹謗中傷は卑怯千万で言語道断だが、

直接に顔を向け合い、話し合え、

言葉を尽くせば誤解も解くことのできる関係においても

軋轢を避けるために、本音を隠して言葉を繕う。

これは現代社会を覆い尽くす風潮である。


たとえば新入社員がおかしな提案をしたとする。

現場を知らないからゆえの非現実的提案。

それによって不利益が生じ、一部の関係者の努力を踏みにじるのは明白な提案。


だがそれに対して、「頭ごなしに、若い人の意見を否定するのはよくない」

とか言って、その提案を通したりする上司もいるのだ。


その背景には、ちょっとした小言にもむくれてしまう若い人が多くなった、

ということもあるのだろうが、

そういう若い人が増えてきた原因も、

「良薬は口に苦し」を避けてきた、上の世代の教育のせいも大いにあるに違いない。


本質に目をつぶっても、ろくなことになりはしない。


平和を願い、武器を捨てる。

地球上の全員にこれができればいいのだけれど、

誰かが武器を捨てると、ここぞとばかりに、弱みを突き、

さらには武力で組み敷こうとする。


人の心にはこういう側面があり、

それを知りつつ自ら制御しようとする人や国が存在する一方、

心のままに振る舞う人や国が存在するということも、

決して忘れてはならないのだ。


無条件幸福駅から愛国駅へ

多様性、持続可能、脱炭素… ポリコレに振り回されると、誰かが笑う