「らしさ」受難の時代である。
あの人は男らしい、あの人は女らしい
などと口にしようものなら、
性差別警察や、多様性パトロールが飛んできて、
口に猿ぐつわをはめられそうなご時世だ。
男とはこういうもの、女とはこういうもの
という従来方式の「決めつけ」が
人間社会、民主社会の、打ちのめすべき敵なのだそうだ。
一般的な状況において
性別で参入制限をするのは、もちろん不当だと思うのだが、
何もかも、どんな場面でも、誰においても
みたいなかたちで、
男女が同じでない状況を糾弾するのは、いかがなものか。
従来の役割分担が、
性に合っている人もいれば、性に合っていない人もいる。
それこそが文字通り、多様性だと思うのだが。
それに、そういう立場の人たちは
国会議員や会社の役員が「男高女低」であることは見逃さないが、
高所作業、屎尿汲取、廃品回収など
男がほぼ独占している世界については
見て見ぬ振りをしているようにしか思えない。
両性はまったく同じだ、まったく同じ機会を提供すべし
と居丈高に叫ぶより、
両性の特性を互いに認め合う、
その方が、男女ともに心豊かに生きられはしまいか。
もちろん、そうは言っても、性同一性障害を排除せよ
と言うつもりは毛頭ない。
それぞれの状況に従い、周囲が各人を尊重すればいいわけだ。
「かくかくしかじか言う輩は、多様性の敵である」
みたいな公式を作って、すべてを判断しようとすることこそ
本末転倒の典型であろう。
男女共同参画だとか、多様性尊重だとか、
一見の美辞麗句が広まれば広まるほど
息苦しくて、窮屈な世の中になる。
そんなことで、楽しく暮らせるわけはなかろう。
社会全体を同じ色で塗り固めようとする
ファシズムの一種のようにしか思えないのだ。
多様性信奉者、多様性シオニストに
おとなしくしてもらうには、
「ほらまた、多様性を認めたがる人らしさが始まった」
と言って差し上げるのが
最強の殺し文句となりはしまいか。
最後に一言、
「多様性」は英語で「ダイバーシティ」と言うらしいが、
最初にこの英単語を聞いたとき、
「潜水夫さんたちの集まる都市」のことかと勘違いした。
もしかして、ダイバーに人気という沖縄にそういう所ができたのだろうか。
いや、まさかのまさか、いくら沖縄でもそんなことは……
だが、呑気なことを言っているうちに、
日本中にダイバーシティが出現し始めたようである。
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